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横浜家庭裁判所 昭和60年(家)1114号 審判

申立人 孫立世

主文

申立人が次のとおり就籍することを許可する。

本籍     神奈川県鎌倉市○○×××番地の×

氏名     孫田立吉

生年月日   昭和16年5月18日

父母の氏名  不評

父母との続柄 男

理由

1  申立の趣旨 主文同旨

2  申立の実情

(1)  申立人は昭和16年ころ、中華民国の黒龍江省内で、日本人を父母として出生した。昭和20年8月ソ連軍の参戦により姉2人弟1人と共に母に伴われ避難行を続けるうち同年9月ころ浜口省葺河県開道村において、母により孫子波韓桂英夫婦(以下養父、養母と略称する。)に預けられた。この時、次姉、弟の2人も同様中国人に預けられ母は長姉と2人で立去つた。母と姉はその後間もなくソ連軍により殺害されたと聞いているが真偽は確認できない。

(2)  養父母は当時開道村内において主として森林伐採に従事する人達を対象とした旅館を経営し比較的恵まれた生活をしていたが政府により森林伐採が禁止されたことから旅館経営を廃止するの止むなきに至つた。そして昭和27年養母は養父と離婚して去り、昭和28年養父は牡丹江市に転居し、大工として働き始めたが健康を害し、昭和29年死亡した。

申立人は13歳で再び孤児となつてしまつたが悲運に堪えて勉学に励み牡丹江市で中学高校を卒業し更に選ばれてハルピン市所在の○○○学院の農業機械科(5年制大学)に進んだが肺病を患い2年で中退の止むなきに至つた。

(3)  申立人はその後申立人同様日本人残留孤児である曹桂華と知り合い昭和42年に婚姻し2児をもうけた。

申立人は現在牡丹江市所在の「○○○○公司」に勤務し技求(日本流でいえば技師補)の地位にあり、経済的には不安のない生活を続けている。

(4)  申立人は幼時来周囲から日本人だといわれて成長して来ており、肉親と再会した上母国日本で生活することを夢みて来たが、殊に同じ日本人残留孤児である妻を得てからその念は益々強くなつている。

申立人は昭和56年日本の厚生省に対し肉親探しを依頼し、自分の日本戸籍を明らかにして貰いたいと考えているが、その希望は果せそうにない。

よつて本件申立に及んだ。

3  当裁判所の判断

本件記録中の資料、家庭裁判所調査官○○○○の調査報告書並びに申立人審問の結果によると次の事実が認められる。

(1)  昭和20年9月ころ、多数の日本人難民の集団が避難の途中短期間開道村に滞在したこと、その際申立人の母は申立人の外姉2人弟1人を連れていたこと、申立人の母は申立人を養父母に、弟を同村内に居住する薬品商を営む高某に、又姉1人を氏名不詳の中国人に夫々に引渡したこと、申立人の母は姉1人を連れて立去つたがその後間もなくソ連軍により殺害されたらしいこと、弟は健在で現在は中国河北省内に居住し申立人との間に文通があること、中国人に引渡された姉の消息は不明であること。

(2)  申立人はその後12歳時(昭和28年)まで開道村に居住し、同村内の小学校に通つていたが、同小学校には申立人と同様の日本人残留孤児が何名かおり交流があつたこと、申立人を含む日本人残留孤児は開道村民の間では周知の事実であつたと推測されること、申立人が9歳のころ(昭和25年頃)政府機関からこれら日本人残留孤児に対し日本に帰国する希望があれば申出るようにとの告知がなされたが申立人は未だ幼かつた為か結局その申出をしなかつたことその際同じ小学校に在学していた日本人孤児1名が帰国したらしいこと。

(3)  養父母は昭和20年当時開道村内で旅館を営み比較的裕福な生活をしていたが、政府の森林伐採禁止により営業不振に陥り、昭和27年養母は養父と離婚して去り、昭和28年養父と申立人は牡丹江市に転住し、養父は大工として働き始めたが健康を害し、昭和29年死亡したこと。

(4)  再び孤児となつた申立人は僅かな遺族扶助料のみという貧窮の中で孤独に堪えて勉学に励み牡丹江市内の中学高校を経て、ハルピン市所在の○○○学院農業機械科(5年制大学)に進んだが肺を患つて2年で中退するに至つたこと。

(5)  その後申立人は約半年で健康を回復し、商店の店員、採炭機械を扱う工場等転々職を変えたのち昭和54年牡丹江市○○○○公司に技求(日本流にいえば技師補)の職を得て現在に至つていること。尚同公司の経理(日本流にいえば社長に当る)の王建仁は開道村の出身者であり申立人とは同じ小学校で学んだ幼な友達でもあり、申立人が日本人残留孤児であることを証明する旨の書面を作成しており、同書面は本件記録に添付されている。

(6)  申立人が昭和42年、申立人同様日本人残留孤児である曹桂華と婚姻し、2児をもうけるに至つたこと。昭和56年申立人は日本の厚生省に対し肉親探しを依頼したこと、本件申立後の昭和60年9月3日妻と共に日本人残留孤児肉親探し訪日団に加えられ来日したが、肉親との再会を果し得ないまま帰国したこと、

(7)  申立人の常住人口登記表には、出生日1941年5月18日、出生地黒龍江省尚志県、漢民族、等の記載があり、訪日時護照を所持していたこと、外僑居留証の発行を受けていないこと等の諸点から一応中華人民共和国国籍を有するものと推定されること。

然し、中華人民共和国許可入籍証書の発給は受けておらず、申立人は同国政府機関から再三に亘り許可入籍の手続をなすべき旨すすめられたがこれを拒否し続けて来ていること、が認められ、自らの希望で中華人民共和国の国籍を取得した形跡は認められないこと。

申立人は孤児証明書の発給は受けていない(中国政府の方針変更により或る時期以後日本人孤児総てにつき発給が停止されたものの如くである)が、申立人が幼時生活した開道村の村民政府(開道村村民委員会)作成の申立人が日本人孤児であることを証明する旨の記載のある書面が存在すること。

以上認定の各事実に基づき本件申立の当否について検討する。

(1)  就籍を許可する為には第1に申立人が日本国籍を有することが確定されなければならない。申立人が出生により日本国籍を取得する為には出生当時の国籍法(明治32年法律第66号)によれば、出生当時父が日本人であること、父の知れない場合には母が日本人であることが必要とされる。

上記認定の事実によれば本件には父を特定し得る資料はなく父の知れない場合に当るから、母が日本人であつたことを確定し得なければならない。本件においては申立人の出生の事実を直接証明する資料はないが、日本人難民集団と共に避難行を続けていた女性が養父母に申立人を引渡した事実からすれば、その女性が申立人の母であり日本人であつたことは疑を容れる余地のないところというべきであり、申立人は出生により日本国国籍を取得しているものというべきである。

(2)  次に申立人が日本国籍を失つていることがないことが確定されなければならない。昭和25年7月1日から施行された国籍法(昭和25年法律第147号)は自己の志望により外国籍を取得した場合には日本国籍を失うべき旨を定めている。申立人は上記認定のとおり中華人民共和国国籍を有するものの如くであるが、その国籍取得は申立人の養父母の手によつてなされたものと推測され、申立人自らの志望によるものとは考えられない。申立人は成人後屡次に亘り中華人民共和国政府機関から許可入籍の手続をなすべき旨求められたにも拘らずこれを拒否し続けていたことが認められ、自らの志望により中華人民共和国国籍を取得するが如きことはあり得ないと考られる。

(3)  申立人は本件申立のかなり以前から肉親探しの努力を重ねて来ており、昭和60年9月日中両国政府の協力により来日する機会を得たものの、その身元は判明せず本籍は不明の状態にあるものと認められる。したがつて申立人は日本国籍を有しながら本籍の有無が明らかでないことになるから就籍を許可すべきものと認められる。

(4)  そこで就籍事項について検討する。

本籍及び氏名については、申立人の希望するところを不相当とする理由はなく、生年月日については申立人の幼時以来中国政府機関に登録されて来た生年月日と同一であり、養父母に引渡された当時の申立人の成長度とも符合しこれを不相当とする理由はないものというべく又父母の氏名及び父母との続柄については上記認定事実のとおり明らかでないから不詳とする外はないものと認められる。

(5)  よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 助川武夫)

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